∈心のナイフ∋
癒されたいのに癒されない気持ち
3度の夢から本当に目が覚めると、俺は当然癒しの部屋に居たが、気分はちっとも清清しくなかった。それどころか無償に胸が苦しくなりこの癒しの空間に嫌気が差す。
 
こんなにも胸が苦しいのに、そんな俺の心すらまるで否定するようにその部屋は柔らかく良い匂いが漂っている。俺は独りきりで、もう側には誰もいないのに、まるで独りじゃないとでも言うようにソファは柔らかい。
 
「俺が欲しいのはこんな物じゃないんだ…」
 
俺は思う。
かつて俺の母が優しく笑って愛しているわと言ってくれたように、かつて俺の愛した人が何も言わなくてもそこに俺がいることを許容してくれたように、俺はそういう癒しが欲しいだけなんだ。
風通しの悪い部屋も立て付けの悪い部屋でも構わない、俺が欲しいのは柔らかいソファや良い香りや綺麗な見た目なんかじゃない、そういうものだったんだ。
 
だってかつての俺はあんなにも満たされていた。
 
満たされていたけれどそこには必ずしもこんな柔らかいソファや心地良い香りがあったわけじゃない。俺はいつ何時も誰かと一緒にいたわけじゃなかったけれど、それでも俺は悲しくなんてなかった。
だってそうだ、いつだって俺の中には大切なものがあってそれはちゃんと伝わって、許されて、存在していたから。
癒しなんて事を発想出来ないほどそれは自然なことだったから。
 
 
 
数日後、癒しの家を後にする事に決めた。
俺に此処を紹介してくれた女性は笑顔で俺にこう言った。
 
"どうでしたか、癒しの家は?"
 
おおよそ癒されたからもう大丈夫だとでも思っているんだろう。だけど違う。俺の心は未だに風通しが悪くて立て付けも悪い。だけど俺はもう此処にはいられないと分かったんだ。だから、此処を後にする。癒しの家を後にする。
 
「ああ、最悪だったよ」
 
俺はそう言い、驚く女性を振り返らずに歩き去る。癒しの代金を支払って。
 
 
 
そんなに簡単に癒されるなら誰だってこんなふうに苦しむことなんてないんだろう。仮に俺が本当に癒される時が来たらそれは、柔らかいソファなんていらない、良い香りなんていらないんだろう。
それは心の中に用意されているものだから。
 
 
 
 END

  

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