∈心のナイフ∋
怒りたいのに怒れない気持ち

あの日、やはり私はその人のいう常識に反論した。
そんなのは間違いだと反対した。
するとその人は。
 
「だったらおまえもやってみれば良いじゃないか。好きな時好きなことをして、厭になったら捨てれば良い。どんなに楽なことか、きっとお前にもわかる」
 
そう言って私を求めた。
それが関係の始まり。
それがあの人の私を求めた理由。
 
あの時一瞬だけのために、私は髪を伸ばし能力を身につけた、ただそれだけの話。
 
「そうでしたね」
 
私は静かにそう言うと、心の中に秋空の薄い雲を思い浮かべ、そうして水面の波紋を想定する。これは、やがて消えゆく波紋に違いない。ゆっくりと輪を広げて、それでもいつかは消えてなくなってしまう。
私には怒ることはできない。怒りを蓄積したとて、それはただ私の馬鹿馬鹿しい空想でしかない。何しろそれはこの世で非常識なことなのだから。
 
 
 
私は髪を切った。
身につけた能力は使わなければやがて消え失せる、それまで待てば良い。
 
「私は常識的な人間になります」
 
あの人の常識がやがてあの人を蝕むその時まで、私はあの人の言う常識的な人間になろう。そしていつかこの恐ろしく無責任で杜撰な常識があの人を蝕む時がきたら、私は笑って優しく教えてあげようと思う。手をとって、この世で最上の笑みを与えながら。
 
厭になったら捨てれば良いのですよ、と。
 
虫けらのように。
 
 
 
END

  

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